それぞれの事情。

大輔の後追いが、かつてないほど激化している現在、彼のお昼寝タイムは、私の唯一の自由時間である。長くて2時間、短ければ1時間といったところだろうか。

だからといってのんびりくつろげるのかと言えばそうではなく、大輔がいては出来ない家事(例:床のワックスがけ、アイロンかけ、ガードの無い2階の出窓のガラス拭き、ウエストサイズが毎年きっちり2cmずつ大きくなる為、毎年買い替えを余儀なくされている夫の制服のズボンの裾上げ、1時間かけて積んだものの、どう直してもイメージどうりに仕上がらないことに腹を立てた大輔が、雄叫びと共に投げつけた積み木が貫通して破れた障子の張り替え等々)を、それぞれの緊急度に応じてこなしている。

もちろん、全部うっちゃってしまってコーヒーを飲みながら、確実に20年以上昔の火サスの再放送を見たって構わないのだが、代わりにやってくれる人物はいないし、築8年の我が家にブラウニー*1はいない。一つ一つはさほどの手間もかからない家事でも、たまれば1日がかりの大仕事になる。勤勉は美徳だ。・・・・年末の大掃除が年末年始の大掃除にならない為にも。

もっとも大輔にはそういう大人の事情はわからない。わかったとしても納得しない。
なぜなら彼にとって母親は、常に側にいてくれるもの。いないと安心できないもの。居るのが当然、むしろ義務、いっそ摂理。例え遊んでいる息子の側で、真剣に月刊LaLa*2を読み耽っていたとしても、側に居ればそれでOKらしい。

だから昼寝が終って母が側にいないことに気付いた時、彼は大声で泣き叫ぶ。泣き叫びながら寝室のドアを力任せに開け、階下に居るはずの母を声を振り絞って呼ぶ。呼びながら積み木だの、ぬいぐるみだの、絵本だの、手当たり次第に階下に向って投げ落とす。時々コントロールが狂って壁に当てたり、勢いがありすぎて積み木が兆弾さながらに跳ね返り、角が壁に突き刺さったりするので、階段の壁は傷だらけだ。

大輔が起きれば、気配でわかるんだから、叫び出す前にさっさと上がれば済むことだろ、簡単じゃん、何を悩むのと夫はいうが、それは、まさに空爆が始まったその瞬間、うっかり階段を上がってしまって、脳天に猛スピードで降ってきた絵本の直撃を受けた(つむじにできた大きな瘤が治るまで4日もかかった)ことがないから言える戯言、そこまで言うなら一回自分で上がってみれと、思わず心の中で叫んだ妻の背後に、赤紫色の巨大なオーラを見た夫が思わず目をそらしたり、後退ったり、腹を見せて寝転んだり寝転ばなかったりという大人の事情も、大輔には関係ないことである。

考えてみれば、近所中に響き渡る大声で泣き喚くのも、手当たり次第に玩具を投げるのも、母親が居ないことからくる不安を紛らわす為の、彼なりの解消法。見た目は4歳でも中身はまだ2歳2ヶ月。母親がいなくて不安なのは当然だし、むしろ自分なりに不安を解消しようとするだけでも立派なもの。
もう少し大きくなって、例え側にいなくても、同じ家の中にいれば大丈夫だとわかるようになれば、こうした行動も自然に収まる筈。そもそも専業主婦の私にとって、育児はいわば仕事の一つ。ならばぐだぐだ文句を言う前に、腹を括ってとことん付き合うべきだろうと、左目の横1cm、猛烈なスピードで飛んで来た三角の積み木を、危ないところで交わしながら、思う私だった。

昨日の午後のことである。
昼食も終り、すやすやと気持ち良さそうに眠る大輔を見ながら、ふと、今日は片付けなければならない用事がないことに私は気付いた。別に見たい番組もないし、夕食の準備にはまだ大分間がある。こんな機会は滅多に無い。今日は大輔が起きるまで、側でのんびり本でも読むかと、長い間読みかけのままうっちゃっておいた文庫本をひっぱりだして横になった。

1時間ほど経った頃、しっかりと目を瞑ったまま、突然大輔が起きあがった。そのままくしゃくしゃに顔を歪めると、お腹と背中がくっつきそうな勢いで空気を吸いこみ、いつものように叫ぼうとしたまさにその瞬間、隣で見ている母親に気が付いた。

Oの形に開かれたまま固まる口、肋骨の数が数えられそうなほどひっこめたお腹、不審げに寄せられた眉、まだ眠いのか、半分閉じられたままの瞼の下で、やはり不審げに見ている目、不審というより不満げな目、むしろなんでここにあんたがいるのかと言いたげな非難めいた目、大声で叫ぶ時、力を入れる為に必要なのだろう胸のあたりまで持ちあがった両手は、そのままの位置で、意味も無く開いたり閉じたりしていた。

「・・・・・・・。」
「・・・・・・・。」

例えば誰もいないと確信して入った部屋の中で、たまりにたまったガスを出したその瞬間、一番見られたくない相手が居ることに気付いた時のような、例えば朝、誰もいないと思って体重計に乗ったその瞬間、後ろから「へぇ、本当はそんな体重なんだ、奥さん。」と呟く夫の声が聞こえた時のような、そんな何ともいえない気まずい沈黙が、1分ほども続いただろうか。このまま固まっていても仕方が無いと考えたのか、あるいは単に息が苦しくなったのか、大輔は長く大きなため息を一つついた。そして見詰め合っていた間、ずっと無意味に開いたり閉じたりしていた両手を頭に当て、がりがりがりと大きな音をたててかきむしり、そのままこちらに背中を向けて寝てしまった。

「・・・・・・・。」

2歳児とは思えない、その不貞腐れきった後ろ姿を見つめながら、側に居なければ泣いて大暴れ、側に居れば恨めしそうに睨まれる、じゃあ、母は一体どうすればいいの、そもそも何の為にいつも大騒ぎしていたの、ああ、男の子ってわからない。思わず頭を抱える秋の午後だった。


追記:1週間程後、泣き喚く代わりに階段の降り口に立って、「ショーコ!ショーコ!(ショウコ=彰子は私の名前)」と呼ぶようになった。我が子に呼び捨てにされるのは、なかなか複雑な気持ちになるものだが、物が降ってくるよりは全然いい。ただ、どうして突然、名前を呼ぶようになったのか。自分で思いついたのか、それとも誰かの真似をしているのか、そもそもどうやって母の名前を知ったのか(大輔の前では誰も私を名前で呼ばない)、謎である。

*1:古い家に棲み、家事を手伝うと言うイギリスの妖精。

*2:白泉社の少女漫画雑誌。清水玲子樹なつみ等、読み応えのある作家が多い。

B型の夫、A型の妻。

夫は探し物がとても苦手だ。

例えば目の前に置いてある新聞に気が付かず、隣の部屋で一生懸命探していたりする。靴箱にしまったお気に入りの革靴はどうしても見つけられないし、外出用のシャツは、クローゼットの一番前にかけてあるにも関わらず、私に出してもらうまでどこにあるのかわからない。

だから引出しの一番下にしまってある靴下は、もう1年以上出番がないし、休日の早朝(というよりむしろ明け方)まだ眠っている妻子を起さないよう、そっと出掛ける時に着ていく服は、気候も季節も関係なく、グレーの長袖ポロシャツに、もういい加減年季が入って風合いが綿からレーヨンに変わり始めたチノパンだ。(どちらも洗濯のローテーションの関係で、引出しの一番上に入っている。)

夫は私が片付けすぎるからわからないのだと言うのだが、私にしてみれば、こんなにわかりやすい場所に置いてあり、仕舞ってあり、かけてあるものを、見つけられない夫の方がわからない。

そのくせ夫好みの美脚、美乳、ロングヘアの妙齢の美女は、どんな時も、どんな場所でも瞬時に見つけられる。例えそれが、常人なら確実に死角になる距離、角度、速度(運転中)であっても、見逃すことはまずあり得ない。もしかして夫の頭には、妖怪アンテナならぬ美女アンテナでもついているのじゃないかと思うことがある。目の前の新聞に気が付かないのに、時速80キロで走行中、右斜め後ろ50Mの角を曲がってきた美人には気が付く夫。人間は、不思議だ。

さて、先週の日曜日。夕食の仕度をしている間、野球中継をBGMに、大輔に遊ばれていたと遊んでいた夫だったが、5時を回り、ハッチポッチステーションが始まったのを潮に、キッチンへやってきた。
「今日の献立、何?」
「鶏の治部煮、茄子と油揚げの炒め煮、それから豆乳スープ。具は玉ねぎとジャガイモと人参ね。」
「じゃ、ちょっとビール買ってくるわ。」
「あ、悪いけど片栗粉、あったら買ってきて。あったらでいいから。」
「OK、OK。片栗粉ね。」
30分後、気に入りの銘柄があったとかで、上機嫌な夫がレシートと一緒に渡してくれたのは、日清製粉「日清フラワー薄力粉」であった。
「・・・・・・頼んだのは片栗粉だったんだけど。」
「え?あ、そうだっけ?まぁいいじゃん。どっちも粉だし。」
確かにどっちも形状は粉だが、片栗粉はジャガイモのでんぷんが原料小麦粉は小麦が原料、原料も性質も用途も全く違うということを、夫の肩をがっしり掴み、顎関節が外れて分解し崩壊するまで揺さぶりながら、説教したい衝動をかろうじてこらえながら、いくら探し物が下手だとはいえ、ここまで違うものを買ってくるとはそもそも人の話を聞いてない証拠、そういえば夫は興味のない話はまったく記憶に残らない性質だったことを思い出し、せめてメモを持たせるんだったと後悔しつつ、明日から夫の夕食はしばらくお好み焼きにしようと心に誓う私だった。

母と兎と祖母と私。

おむつをはくのを嫌がって、フリチンで逃げまわる大輔を追いかけていると、実家の母から、電話がかかってきた。
「昨日あやちゃん(注:姪。4歳)から電話があったのよ。」
「なんて?」
「ペットのウサギが骨折して、今入院してるんだって。」
「・・・それは気の毒に。」
「でもね、普通ウサギって、骨折なんかしないものでしょ。家の中で飼ってるんだし。おかしいなって思って聞いたのよ。どうして骨折したのって。」
「何て答えたの?」
「散歩してたら折れたって。」
「・・・・・・。」
「ずっと家の中で可哀想だから、お散歩させてあげたのって言ってたけど、でもねぇ。犬じゃあるまいし、ウサギを散歩させてもねぇ。野山駆けまわってる野ウサギならともかく、1日ケージの中でじっとしてるようなウサギを散歩になんか連れてったら、そりゃ折れるわよ。もともと足腰弱いんだから。」
「いいもの食べて、大事にされて、よく太ってたしねぇ。」
「それにあの子のことだから、きっとウサギの事情なんかお構い無しで、思いっきり走り回ったんじゃないかしら。可哀想に夜中痛がって泣いてたそうよ、そのウサギ。そりゃ痛いわよねぇ、足が折れたんじゃ。」
「気の毒に。」
「入院費も馬鹿にならないしねぇ。ついこの間勇貴(注:甥。6ヶ月)が退院したばかりだってのに。しかも今度は実費だし。」
「十割はきついからねぇ。万単位だからねぇ。」
「あんたがお産で里帰りしてる間、旦那より飼い犬の健康心配してて、正直、我が娘ながらなんてひどい嫁だろうって思ってたけど、間違いだったよ。同じ入院するなら、保険が利いて、保障も降りる旦那の方が家計に優しいからねぇ。」
「最近はペット保険ていうのもあるのよ、母さん。」
「そうなの?」
「掛け金月々6000円で、一泊から保障下りるらしいから、今検討してるところなのよ。うちはほら、2頭だから。」
「そろそろいい歳になってきたしねぇ。」
「いい歳といえば、婆様、どう?元気?」
「・・・・元気も何も。」
「どうしたの?」
「夜中の2時に母さん達の部屋に来て、「勝太郎さん(注:祖父。故人)がそっちに行ったっきり帰ってこないんだけど、何話し込んでるんだ。」って。」
「わお。」
「きっと寝惚けて夢でも見たんだろうと思ったんだけど、下手に刺激して怒らせるとまずいから「あら、そうですか。こっちには来てないみたいですけど。」って答えたのよ。」
「そしたら?」
「「おや、そうかい。じゃあ、さっきこの部屋から誰か出ていったけど、あれがそうだったのかもしれないね。お邪魔さん。」」
「うわぁあ!!!。」
「あのお義母さんのことだから、嫁の前で寝惚けたのが悔しくて、きっと適当なこと言って誤魔化したんだろうと思ったけど、気持ち悪くてねぇ。もし、本当におじいちゃんが枕元に座ってたらどうしようとか、そういえばそろそろ祥月命日だし、このところいろいろ忙しくてお墓参りもしてないし、寂しくなって出てきたのかしらとか、いろんなこと考えて眠れなくなって。」
「・・・・気の毒に。」
「で、朝、会ったらこうよ。「おや、顔色が悪いねぇ、何か心配ごとでもあるのかい?夜はちゃんと眠らないと体に毒だよ。」ですって。」
「・・・・婆様。」
「1日家の中にいて、いいもの食べて、大事にされて、よく太ってるけど、ウサギみたいにか弱くないわよ、お義母さんは。ええ、絶対にか弱くなんかありませんとも。」
嫁して37年、いまだに張り合う嫁と姑。やっとおむつをはいたと思ったら、今度は上着を脱いでおむつ「だけ」になり、あきゃあきゃ笑いながら跳ねまわる大輔を抱き上げながら、案外それが、祖母の長寿の秘訣なのかもしれないと考える私だった。婆様、今年89歳。

夫婦2。

休日の昼下がり。
大輔は昼寝、夫はコンビニへ自分専用のおやつを買いに出かけ、一人残されて、私は少々困っていた。
というのも、家事は午前中に片付けてしまったし、夕飯の準備には少々早すぎる上、意外に音が響く我が家のキッチン。寝室のドアは閉めてあるものの、まだ使い始めて1年と10ヶ月、新品同様ですこぶる性能のいい大輔の五感は侮れない。寝入ったばかりの大輔を、音と匂いで起してしまうことにでもなったなら、それはもう、どえらいことになるのは目に見えている。困っているのは、つまりこういうことであった。することがない。
仕方がないので、ここはおとなしく、リビングでTVでも見ることにした。とはいえ、休日の午後の番組といえば、野球、ゴルフ、競馬、あまり面白いとはいえない旅行もの。CATVの映画チャンネルで、ちょっと面白そうなイタリア映画をやっていたものの、全部見終わるまで大輔が起きずにいてくれるかどうか。経験上、一番いいところで中断する羽目になりそうな予感が激しくするので、これは却下。
だとするとあとは読書かビデオだが、途中で中断しても問題ないという点を重視してビデオ鑑賞することにした。したのだが。
我が家のビデオライブラリーの9割は夫の「野球中継コレクション」。熱狂的、いやむしろ狂信的な阪神タイガース高校野球ファンの夫が撮りためたもので、メインの試合はもちろん、ファームから地方大会まで、よくもここまで細かくチェックできるものだと感心するほど。探せばVHSとベータが覇権を争っていた時代のものもあるというから恐れ入る。さすが阪神の試合がノーカット、ノーCMで見られるからという理由「だけ」でケーブルTVに加入しただけのことはある。
無論、いくら途中で中断されてもいいものがベストとはいえ、野球ファンでもなければマニアでもないのに、こんなものを見る気になるわけはなく、残り1割の大輔用NHK教育番組の録画ビデオを、適当に抜き出し、音を絞って観る事にした。
再生して10分ほど経った頃、夫が買い物を済ませて戻ってきた。
「何で大輔のビデオ見てるの?」
「他に見るものがなかったから。それにさ、何か和むし。」
「ふーん。」
画面では、二人の子供とケイン・コスギが楽しげに遊んでいた。しばらく無言で眺める二人。やがてぴったり体に貼りついたレオタード風の衣装をつけて、森山開次が子供番組とは思えない、見事なダンスを披露し、ソフト帽を被り、クラシックなスーツ姿の小林十市が、ユーモラスなダンスを始めた時、おもむろに夫が口を開いた。
「わかったよ、俺。」
「へ?何が?」
「奥さんが、わざわざこのビデオ選んだ理由。まぁ、俺もさ、熊田曜子の水着姿とか、某金融会社のダンスCMとか見てると和むしな。わかるよ、うん。」
「・・・・・。」
待て待て待て。それは誤解だ、間違ってる。心の中で叫びつつも、あまりのことに言葉がでない私。すると夫は、したり顔でこう続けた。
「奥さん、筋肉が好きだからなぁ。特に臀部の。」
「・・・・・。」
確かに私は筋肉が好きだ。一見スレンダー、でも脱ぐと凄いんです、そんなタイプが大好きだ。だからといって、子供のビデオまでそんな目で見ているわけじゃない。誤解だ。誤解なんだ、夫。とはいえ。
何も言わなくていいんだよ、君の事はすべてわかってる。そんな台詞が頭の上で、特大の吹きだしに囲まれて浮かんでいるのがはっきりわかる、夫の得意そうな笑顔を見ていると、だんだん否定するのが気の毒になる私だった。
「・・・・そうだね、大臀筋は好きだね。」
「だろ、だろ。」
強くなければ生きていけない。優しくなければ生きている資格がない。
フィリップ・マーロウの名台詞を、心の中で繰り返す初夏の午後だった。
「もう、奥さんたら好きだなぁ。」
だから違うんだって。

コミニュケーション。

最近、大輔が「イクラちゃん」化している。
歌のお兄さん、お姉さんの「みんなぁ、元気ぃ??」の呼びかけに
「はぁい!」
遊びに来た義母の「大ちゃん、すっかりお兄ちゃんになったねぇ。」に
「はぁい!」
「大ちゃん、おやつ食べようか?」
「はぁい!」
「大ちゃん、おむつ替えようか。」
「はぁい!」
イントネーションといい、声の感じといい、イクラちゃんの声を当てているのは、実は大輔なんじゃないかと思うくらいそっくり。にこにこ笑いながら「はぁい!」と言われると、親バカマックスな両親は腰が砕けそうになる。もう可愛すぎ。<メロメロ
もっとも大輔、「サザエさん」を見たことは一度もない。一度もないのにこの完璧さ。子供を持つまでは考えてみたこともなかったけれど、「イクラちゃん」。実はリアリズムだったのかと、妙なところで感心したり。
何にしても、会話(らしきもの)が出来るようになったのは、本当に嬉しい。思えば今まで、私達のコミニュケーションに、言葉というものは存在しなかった。アイコンタクトとボディランゲージ、そしてわずかな表情の変化から、相手の言わんとするところを推測する日々。それはまさに、愛犬と私が8年間、繰り返してきたものとまったく同じ。正直な話、付き合いが長い分、大輔より愛犬の方が、お互い気持ちが通じやすかったりする。同じ人間なのに、実の母子なのに、種族の違う愛犬の方がよくわかるなんて。仕方が無いこととはいえ、切ない話だ。
それが今、「はぁい。」だけとはいえ、会話らしきものができるようになった。言葉で理解しあえるようになってきた。大袈裟でもなんでもなく、今、やっと親子になれた気がする。・・・・人間の。
「大ちゃん、今日もたくさん遊んだねぇ。」
「はぁい。」
「たくさん御飯も食べたね。」
「はぁい!」
「歯ブラシもちゃんと出来たし。」
「はぁい!」
「大ちゃん、お風呂入ろうか。」
「いやだ。(きっぱり)」
会話は楽しい。会話は便利だ。会話は、人間関係の基礎である。
しかしながら、会話が弾んだからといって、要求が通るとは限らない。
嫌がる大輔を問答無用で小脇に抱え、バスルームへ向いながら、こうして力ずくで問題を解決できるのも今のうちだ、と、しみじみ思う私だった。
「いやだぁあああ!!!」

それぞれの基準。

夫は賞味期限に寛容だ。というよりも「賞味期限」という概念がない。概念が無いから賞味期限を確認する、という行為も無い。
だから例えば、封は切られていないが賞味期限が1年以上前に切れているウスターソースを、たっぷりかけてコロッケを食べたり、うっかり冷蔵庫に入れたまま忘れていた、3年前に貰ったお土産のチョコレートを全部一人で食べたりする。
そのくせ具合が悪くなったことは一度も無いし、味がおかしいと訝ることも無く、けろりとしているので、あれはどういう仕組みなのだろうと不思議に思うことがある。
新婚の頃、夫が実家から持ってきたウスターソースをカレーの隠し味に使おうと思い、いつもの癖で、何気なく賞味期限を確認すると、4年以上も前の日付けになっていたので、真っ青になりながら夫に報告したのだが(その日の朝食の目玉焼きに、夫がかけて食べていたので)、
「あ、そうなん?」
の一言で済んでしまった。その後下すこともなく、吐くこともなく、気持ち悪くなることも、気持ち悪く思うこともない、泰然自若とした夫の姿に
「この人、本当は凄い大物なのかもしれない。」
と内心、舌を巻いたことがある。というのも、私は人一倍賞味期限に神経質で、例え1日でも期限の過ぎたものは、たとえそれが加熱してあっても食べられない。うっかり気付かずに食べてしまって、後で賞味期限が切れていることに気付いたりすると、特にどうということがなくても、何となく気味悪く、落ちつかない気分で1日を過ごす羽目になる。
賞味期限というものは、安全の為に、本当に食べてはいけない日限より、1週間早目に設定してあると、どこかで読んだ覚えがある。
そもそも賞味期限などというものにこだわるようになったのは、ごく最近のことで、昔は少しばかり傷んでいても、匂いや味に問題が無ければ、気にせず食べていたものだった。少なくとも、私が小さい頃はそうだったように思う。
もちろん、見極めが甘いと大変なことになるし、無理に古いものを食べる必要はないのだが、本来、人間の体というものは、私達が思う以上に丈夫で、適応力がある。子供や老人はともかく、健康な成人なら、私のように、日付けだけにこだわって、食べ物そのものの状態を考えないのは、むしろ不自然なことなのではないか、夫のようにおおらかな気持ちでいる方が、人として自然な姿なのではないか。まさに、目からうろこの落ちる思いがしたものである。・・・なのだが。
昨日の朝食はトースト、ポテトサラダ、オムレツにコーヒーというメニューだった。家族3人テーブルを囲み、いただきますと手を合わせた後、最近、自分で食べたがる大輔のために、オムレツを小さく切ってやっていたのだが、ふと、夫の方を見ると、大好きなメニューの筈なのに、手をつけようともせず、自分の皿を見つめたまま、何やら考え込んでいる。
「どうしたの?食べないの?」
「いや、あのさ、これ。」
「何?」
「このパン、焦げてない?」
言われて見れば、トーストのはじが、少しばかり焦げている。だが、本当にほんの少し。
「それが、何か?」
「・・・・・ガンに、なる。」
「は?」
「ガンになるよ、こんなの食べたら。」
「・・・・・・・。」
夫は、確かに賞味期限に寛容だ。だからといって、「焦げ」にもそうだとは限らない。
夫のトーストをつまみあげ、無言で焦げたはじっこをちぎってわたしながら、基準ってなんだろう、一人考える36歳の春だった。

翼をください。

おかあさんといっしょ」のエンディング、「あ・い・う」は大輔一番のお気に入りだ。とりわけみんなでジャンプするところが大好きで、TVを見ていない時でも、母にそこだけ歌えとせがみ、歌にあわせてジャンプする。・・・しているらしいのだが。
「・・・大輔、何してんの?」
「・・・ジャンプしてるつもりなのよ、あれでも。」
体を低く低くかがめて、足を曲げ、思いっきり後ろにを両手を振り上げて、ジャンプ!の筈が、飛ばない。まったく飛ばない。全然飛ばない。激しく上体は動いているのに、下半身は深く曲げられたまま、微動だにしない。何度も何度も振り上げられる両手は、回数を追うごとに激しく、強く、速くなり、鳥の羽ばたきさながら、そこだけ見ていれば、今にも空へ飛び立ちそうに思える。・・・思えるのだが。
「・・・・飛べないね。」
「身が重いからねぇ。」
ジャンプする、という行為は、全身の筋肉がバランス良く発達していなければできない。決して脚の力だけで飛んでいるわけではないのだ。脚の力で浮き上がった体を上半身の筋肉が支え、持ち上げる。そうして初めてジャンプすることができるのである。
1歳9ヶ月にしては発育の良い大輔だが、14kgの体重を支え持ち上げるには、まだまだ上半身の鍛え方が足りないらしい。
飛びたい。でも飛べない。だから飛びたい。
必死にはばたく大輔の姿に、思わず胸を熱くしながらも、私達は思い出していた。
ゆっくりと地平の彼方に沈んでいく、巨大な太陽に照らされて、金色に輝くサバンナの大地。その大地を、昂然と頭を上げ、二本の脚でしっかりと踏みしめて、遥か彼方を見つめる巨大な鳥のシルエットを。
「ダチョウってさ、羽ばたくんだっけ?」
「走りながら羽ばたいてた気がする。」
見れば体は低くかがめたまま、激しく羽ばたきながら走る大輔。わずかに飛んでいるような気はするけれど、ジャンプと呼ぶにはまだまだ遠い。
それでも彼は諦めない。とっくに画面は切り替わり、ケイン・コスギが子供達と一緒におかしな顔をして笑っていたが(注:「からだであそぼ」の冒頭で、自分の顔を粘土細工に見たてて、いろんな顔にしてみせるコーナーがある)お構いなしで羽ばたき続け、走り続ける。やがてジャンプする為に羽ばたいていたことを忘れ、単なる腕振りに変わっていたが、彼は走っていた。走り続けていた。
「ダチョウってさ。」
「ん?」
「走り出したら止まらないらしいよ。すごく忘れっぽいからさ、なんで走ってるのか、途中でわかんなくなっちゃうんだって。」
「・・・へぇ。」
「ほんとかどうかはわかんないけどさ、少なくともうちのダチョウはそうみたいだね。」
飛べない鳥、大輔。君があの大空に翼を広げ、自由に飛べる日が来ることを、母は、父は、信じています。