それぞれの事情。

大輔の後追いが、かつてないほど激化している現在、彼のお昼寝タイムは、私の唯一の自由時間である。長くて2時間、短ければ1時間といったところだろうか。

だからといってのんびりくつろげるのかと言えばそうではなく、大輔がいては出来ない家事(例:床のワックスがけ、アイロンかけ、ガードの無い2階の出窓のガラス拭き、ウエストサイズが毎年きっちり2cmずつ大きくなる為、毎年買い替えを余儀なくされている夫の制服のズボンの裾上げ、1時間かけて積んだものの、どう直してもイメージどうりに仕上がらないことに腹を立てた大輔が、雄叫びと共に投げつけた積み木が貫通して破れた障子の張り替え等々)を、それぞれの緊急度に応じてこなしている。

もちろん、全部うっちゃってしまってコーヒーを飲みながら、確実に20年以上昔の火サスの再放送を見たって構わないのだが、代わりにやってくれる人物はいないし、築8年の我が家にブラウニー*1はいない。一つ一つはさほどの手間もかからない家事でも、たまれば1日がかりの大仕事になる。勤勉は美徳だ。・・・・年末の大掃除が年末年始の大掃除にならない為にも。

もっとも大輔にはそういう大人の事情はわからない。わかったとしても納得しない。
なぜなら彼にとって母親は、常に側にいてくれるもの。いないと安心できないもの。居るのが当然、むしろ義務、いっそ摂理。例え遊んでいる息子の側で、真剣に月刊LaLa*2を読み耽っていたとしても、側に居ればそれでOKらしい。

だから昼寝が終って母が側にいないことに気付いた時、彼は大声で泣き叫ぶ。泣き叫びながら寝室のドアを力任せに開け、階下に居るはずの母を声を振り絞って呼ぶ。呼びながら積み木だの、ぬいぐるみだの、絵本だの、手当たり次第に階下に向って投げ落とす。時々コントロールが狂って壁に当てたり、勢いがありすぎて積み木が兆弾さながらに跳ね返り、角が壁に突き刺さったりするので、階段の壁は傷だらけだ。

大輔が起きれば、気配でわかるんだから、叫び出す前にさっさと上がれば済むことだろ、簡単じゃん、何を悩むのと夫はいうが、それは、まさに空爆が始まったその瞬間、うっかり階段を上がってしまって、脳天に猛スピードで降ってきた絵本の直撃を受けた(つむじにできた大きな瘤が治るまで4日もかかった)ことがないから言える戯言、そこまで言うなら一回自分で上がってみれと、思わず心の中で叫んだ妻の背後に、赤紫色の巨大なオーラを見た夫が思わず目をそらしたり、後退ったり、腹を見せて寝転んだり寝転ばなかったりという大人の事情も、大輔には関係ないことである。

考えてみれば、近所中に響き渡る大声で泣き喚くのも、手当たり次第に玩具を投げるのも、母親が居ないことからくる不安を紛らわす為の、彼なりの解消法。見た目は4歳でも中身はまだ2歳2ヶ月。母親がいなくて不安なのは当然だし、むしろ自分なりに不安を解消しようとするだけでも立派なもの。
もう少し大きくなって、例え側にいなくても、同じ家の中にいれば大丈夫だとわかるようになれば、こうした行動も自然に収まる筈。そもそも専業主婦の私にとって、育児はいわば仕事の一つ。ならばぐだぐだ文句を言う前に、腹を括ってとことん付き合うべきだろうと、左目の横1cm、猛烈なスピードで飛んで来た三角の積み木を、危ないところで交わしながら、思う私だった。

昨日の午後のことである。
昼食も終り、すやすやと気持ち良さそうに眠る大輔を見ながら、ふと、今日は片付けなければならない用事がないことに私は気付いた。別に見たい番組もないし、夕食の準備にはまだ大分間がある。こんな機会は滅多に無い。今日は大輔が起きるまで、側でのんびり本でも読むかと、長い間読みかけのままうっちゃっておいた文庫本をひっぱりだして横になった。

1時間ほど経った頃、しっかりと目を瞑ったまま、突然大輔が起きあがった。そのままくしゃくしゃに顔を歪めると、お腹と背中がくっつきそうな勢いで空気を吸いこみ、いつものように叫ぼうとしたまさにその瞬間、隣で見ている母親に気が付いた。

Oの形に開かれたまま固まる口、肋骨の数が数えられそうなほどひっこめたお腹、不審げに寄せられた眉、まだ眠いのか、半分閉じられたままの瞼の下で、やはり不審げに見ている目、不審というより不満げな目、むしろなんでここにあんたがいるのかと言いたげな非難めいた目、大声で叫ぶ時、力を入れる為に必要なのだろう胸のあたりまで持ちあがった両手は、そのままの位置で、意味も無く開いたり閉じたりしていた。

「・・・・・・・。」
「・・・・・・・。」

例えば誰もいないと確信して入った部屋の中で、たまりにたまったガスを出したその瞬間、一番見られたくない相手が居ることに気付いた時のような、例えば朝、誰もいないと思って体重計に乗ったその瞬間、後ろから「へぇ、本当はそんな体重なんだ、奥さん。」と呟く夫の声が聞こえた時のような、そんな何ともいえない気まずい沈黙が、1分ほども続いただろうか。このまま固まっていても仕方が無いと考えたのか、あるいは単に息が苦しくなったのか、大輔は長く大きなため息を一つついた。そして見詰め合っていた間、ずっと無意味に開いたり閉じたりしていた両手を頭に当て、がりがりがりと大きな音をたててかきむしり、そのままこちらに背中を向けて寝てしまった。

「・・・・・・・。」

2歳児とは思えない、その不貞腐れきった後ろ姿を見つめながら、側に居なければ泣いて大暴れ、側に居れば恨めしそうに睨まれる、じゃあ、母は一体どうすればいいの、そもそも何の為にいつも大騒ぎしていたの、ああ、男の子ってわからない。思わず頭を抱える秋の午後だった。


追記:1週間程後、泣き喚く代わりに階段の降り口に立って、「ショーコ!ショーコ!(ショウコ=彰子は私の名前)」と呼ぶようになった。我が子に呼び捨てにされるのは、なかなか複雑な気持ちになるものだが、物が降ってくるよりは全然いい。ただ、どうして突然、名前を呼ぶようになったのか。自分で思いついたのか、それとも誰かの真似をしているのか、そもそもどうやって母の名前を知ったのか(大輔の前では誰も私を名前で呼ばない)、謎である。

*1:古い家に棲み、家事を手伝うと言うイギリスの妖精。

*2:白泉社の少女漫画雑誌。清水玲子樹なつみ等、読み応えのある作家が多い。